金曜日, 5月 30, 2008

故郷の美田

故郷の田んぼ。田植えの終わった今が一番「美田」に感じる。農作業は大変なこととしか思わなかった子供の頃。その故郷の暮らしを離れて随分と過ぎた今、田んぼの風景を見ると落ち着く。だが、この田んぼも近い将来どうなるか分からない。故郷で頑張った連中も皆年取った。もちろん、私に田んぼが出来るわけはない。そう思うと寂しい。しかし寂しいと思うほどに風景が懐かしく、見ると落ち着く。もう一度故郷の我が家で暮らしてみたいなどと 思う。

日曜日, 5月 25, 2008

バラ園のある病院

きょうは今月初めて何の予定も入っていない休日だった。
久しぶりに老母と老義母を、それぞれ入院中の病院に見舞った。
母は、かすかにしてくれた返事も今は反応きわめて弱くなり、義母は、意識不明で最悪を覚悟した時から3カ月経って、実娘である家内の呼びかけには、うなづくまでに驚異的な回復をしたが、二人ともモノ言わず寝たきり状態。生きることは大変なことだと、いつも思う。
母の入る病院の前庭にはバラ園がある。近所の男性が丹精されているたくさんのバラで、車椅子で散策の患者さんたちに好評のようだが、バラを見ることのできない寝たきり患者も大変多い。
いつもながら病院の皆さんの日ごろのお世話に感謝した。

金曜日, 5月 23, 2008

感谢对大家的善意

在文化中心举办的中文班交流会的时侯,为四川大地震灾民支援,参加人们募捐了。 捐款总额是达到2万日元。对大家的善意,我表示衷心感谢。23号,把捐款寄托给报社的捐款窗口。
文化教室中国語講座と交流の集いで、四川大地震の被災者救援のため、参加した人たちが義援金を募金した。総額は2万円にもなった。皆さんの善意に、心から感謝する。
23日、義援金を新報社の窓口に寄託した。

火曜日, 5月 20, 2008

我的奥林匹克/ボクの五輪

このところ話題から少し遠のいたが、聖火リレーが騒がしい頃、我が家のタンスから取り出した。
「TOKYO 1964」の胸マークを、ただのグンゼの下着に縫い付けただけ。当時はこれで立派なユニホームだったのか。
僕はロードレースでは速いほうだった。弟はもっと速かった。その兄弟そろって聖火リレーの伴走チームに選ばれた。もちろんトーチを持つ主役は陸上部や運動部の主力選手たちで、ボクらはゾロゾロ後について伴走するだけだった。それでも僕にとっては、タンスに残す「僕のオリンピック」となった。
それから44年も過ぎて、だいぶ色あせてシワっぽくなっているが、17歳の感動は残っていた。

日曜日, 5月 18, 2008

中国語講座を囲む交流の集い

中国への知識と中国語への関心を高めてもらおうと、 山陰中央新報文化教室の中国語講座の受講生と中国旅行をした皆さんたちの集いが17日開かれ、21人が参加して有意義なひと時を過ごした。
「写真家」「版画家」「留学経験の受講生」の3人が、数々の写真やスクリーンで、民族の風物や人物あるいは交流、留学体験など、それぞれの特色を生かして中国での様子を発表。本当に良い組み合わせの発表であり、また別の受講生から中国語で旅の感想も出るなど、参加者一同に旅行や留学への想いを更に募らせた。
この集いを計画後に四川大地震が発生したため急遽、黙祷と義援金箱を設定。松江で中国語講師を務める中国出身の二人の先生とお子さんも一緒に、母国の犠牲者の冥福と一日も早い救助、復興を願う集いともなった。私は講座を囲む交流の輪が、中国の友人たちを励まし復興の一助となる交流の輪になって欲しいと願った。
なお募金箱は、参加できなかった皆さんにも今週の講座でお願いした後、新聞社の義援金窓口に寄託する。皆さんのご協力に心から感謝!

水曜日, 5月 14, 2008

天崩地裂Ⅱ

▲成都市郊外の杜甫草堂(とほそうどう)。唐の詩人・杜甫の旧居で、園内には梅林や竹林の中に渓流が走る閑静なたたずまい(04.8)。

震源の汶川(ぶんせん)への道路は断絶され6万人と連絡取れず、歴史的な水路で世界遺産の都江堰(とこうえん)も跡形なく、何千人かの犠牲者を出した绵竹(めんちく)や、北川(ほくせん)チャン族自治県の壊滅的な住居の映像……報道の度に増える犠牲者の数と惨状。そこから更に北東の青川(せいせん)にかけての300公里(km)に及ぶ断層が動いたという、凄まじい破壊力。
地図で、いずれも成都の北方に位置する、これらの地域の更に北方を見やれば九寨沟がある。
それにしても過去2度、旅行で経由したことのある成都を、このような形で思い出すことになろうとは。
とにかく一日も早い救助、復旧を願い、山陰中央新報も明日15日から被災地への義援金を募ります。日本赤十字社を通じて救援活動におくります。ご協力願えれば幸いです。

月曜日, 5月 12, 2008

天崩地裂/天変地異

▲四川省の成都で車中から見た日本企業の一つ、イトーヨーカドー(04.8)

連休後半と同時に準備・本番に追われた写真展も、きょう夕方の作品撤収で概ね無事終了した。連休後も休暇をとっていた私は、きょうの月曜日はもう仕事を休めず、久しぶりに仕事を処理した。
この間、ニュースを詳しく見聞する余裕もなかったが、中国の胡锦涛主席来日という国家的な動きのほかに、ミャンマーではサイクロン被害による何万人もという驚愕の犠牲者が出た様子、さらにきょうは中国でも四川省の西北西90公里にある「汶川县」付近を震源とする大地震が発生。400公里離れた重慶でも小学校の倒壊による犠牲者の報など続々。
「汶川」は九寨沟に通じるルートの途中にある。もしやと思って老師に電話したら、九寨沟は無事な様子だと。少し安堵。
成都と重慶には日本企業も多い。イトーヨーカドー、伊勢丹、トヨタほか(成都)、ホンダ、スズキ、マツダ、いすゞほか(重慶)。
胡主席の来日で「未来志向で日中両国関係を更に推進する」ことが約された。これはこれで大いに歓迎したい。
それにしても自然の脅威は凄まじい。ミャンマーなどは不安と不満も募る軍政下での大災害で“人災”との声も出る。・・・被災犠牲者の冥福を祈るばかりである。

日曜日, 5月 11, 2008

第2回しまね写真展

県立美術館で開催中の「第2回しまね写真展」は、初回の昨年を上回る209点の応募と、主催の県写連の会員作品展を併せて計247点を展示。毎日多くの来場で盛会です。
遠くは北海道から応募してくれた友人、講座のみなさん、知り合いの連中、等々いろいろな形で応募してくれた皆さんに感謝します。
さらに、会場に来てくれた皆さん、しかも何度も来てくださる方もあり、感謝しています。
連日の会場当番も嬉しい気持ちで充実しています。
取り急ぎ、お礼かたがた報告まで。
なお明日までです。まだの方はぜひ一度!

日曜日, 5月 04, 2008

憲法9条と永井博士

▲1951年新春(昭和26年)とある永井隆博士の「如己愛人」。
その年、5月1日朝に43歳で逝去。

私が生まれた年、昭和22年(1947年)5月3日に「日本国憲法」が施行。永井博士は病床で、特に第9条の条文に感涙されたという。
 「これこそ、戦争の惨禍に目覚めた本当の日本人の声だ。しかし、理屈はなんとでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から、憲法を改めて戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ声が出ないとも限らない。そして、その叫びがいかにも、もっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけられるかもしれない。そのときこそ、誠一よ、茅乃、たとい最後の二人になっても、どんなののしりや暴力を受けても、きっぱり『戦争絶対反対』を叫び続け、叫びとおしておくれ! たとい卑怯者とさげすまれ、裏切り者とたたかれても、『戦争絶対反対』の叫びを守っておくれ!」 (1949年=昭和24年に刊行された『いとし子よ』から)
 すでに博士は今日の憲法改正の動きを察知しておられたのか。その息子の誠一(まこと)さんは父の想いを著書「永井隆」(サン パウロ発行)に託して、また娘の茅乃(かやの)さんは今春、博士の生誕100年記念式典の前日に、いずれも早くして天に召された。
“最後の二人”がいなくなって、いよいよ博士の願いは空しいものになってしまうのか。
いや私も、そうはさせない。もっとはっきり憲法を守る友人だっている。
……私の生まれた年と憲法のことを考えた、今年の5月3日だった。