1月27日。デジタルフォトクラブの「ぶらりサロン」で白鳥を撮りに行きました。全く思うように撮れませんでした。これもピンボケですが、まあ雰囲気でみてもらえれば幸いと思って載せます。あれもこれも勉強不足です。
火曜日, 1月 22, 2008
感動の作品展
デジタルカメラを愛好する「しまねデジタルフォトクラブ」は、新年に第5回作品展を開きました。今回は過去最高の出品数で、初日は午後から開場した4日間の期間中に合計600人を越す来場があり、会員一同は大変喜びました。
会場の一角では、会員の西島さんのお嬢さん、祥子(しょうこ)さんの詩集展が併せて開かれました。彼女は、原因不明で治療法も確立してない進行性の難病とたたかっているのです。それを知った会員たちの提案で、彼女にとっては初めての個展となり、この様子が1月18日付けの新聞にも載り、連日多くの人が訪ねて来られたのも、来場者数に大きく反映しました。
お父さんはデジ・フォトの先駆者。その秀作と並び、お嬢さんの懸命に生きようとする力を託す詩の数々が感動させました。この展覧会まで何も知らなかった私には、知らなければ通り過ぎてしまったかも知れないほど、激痛を感じさせない、この可愛らしい笑顔はどこから来るのか…。
私なりにブログでお知らせすることしかできないので、最終日の親子を撮らせていただきました。
祥子さん頑張って!
金曜日, 1月 18, 2008
岛根数码相机俱乐部展览会
月曜日, 1月 14, 2008
永井隆記念館にて(Ⅱ)
祈る博士「妻の喪に服して~半年髪刈らず」
との説明があります。
◇
昭和20年(1945年)8月9日午前11時2分、
長崎の上空にピカッと光線が走った。
被爆…自らも重傷を負いながら被爆者救護に全力を挙げ、
3日目の夕になって自宅に戻って初めて、
妻の緑さんの姿が消えていることを知った博士。
「あった。やっぱりあった。灰の上に高まって現れている
黒いもの―緑よ!台所の跡の、茶わんのかけらのそばに
―たったこれだけの骨になって……近寄って手をかけた。
まだほの温たかかった。拾い上げたら、ああ軽く、ぽろり
と崩れた。腰にロザリオの鎖だけがまつわっていた。」
(永井隆著「滅びぬものを」より)
2カ月前、白血病で自分が先に逝くべき余命を宣告されて
いたのに、突如、妻が逝ってしまった博士は、骨をバケツに
入れて墓に向かった。
「私の骨を近いうちに妻が抱いてゆく予定であったのに―
運命はわからぬものだ。私の腕の中で妻が、かさかさと
燐酸の音をたてていた。私はそれを『ごめんね、ごめんね』
と言っているのだと聞いた。」 (「ロザリオの鎖」より)
◇
(※参考文献=長男誠一さんの著書「永井隆」)
との説明があります。
◇
昭和20年(1945年)8月9日午前11時2分、
長崎の上空にピカッと光線が走った。
被爆…自らも重傷を負いながら被爆者救護に全力を挙げ、
3日目の夕になって自宅に戻って初めて、
妻の緑さんの姿が消えていることを知った博士。
「あった。やっぱりあった。灰の上に高まって現れている
黒いもの―緑よ!台所の跡の、茶わんのかけらのそばに
―たったこれだけの骨になって……近寄って手をかけた。
まだほの温たかかった。拾い上げたら、ああ軽く、ぽろり
と崩れた。腰にロザリオの鎖だけがまつわっていた。」
(永井隆著「滅びぬものを」より)
2カ月前、白血病で自分が先に逝くべき余命を宣告されて
いたのに、突如、妻が逝ってしまった博士は、骨をバケツに
入れて墓に向かった。
「私の骨を近いうちに妻が抱いてゆく予定であったのに―
運命はわからぬものだ。私の腕の中で妻が、かさかさと
燐酸の音をたてていた。私はそれを『ごめんね、ごめんね』
と言っているのだと聞いた。」 (「ロザリオの鎖」より)
◇
(※参考文献=長男誠一さんの著書「永井隆」)
日曜日, 1月 13, 2008
雲南市三刀屋町の永井記念館
永井博士は、我が故郷の飯石村(現・三刀屋町多久和)に育ち、
長崎医大に進み放射線専門医師として献身的な治療に当たる
うちに自ら白血病にかかり、そして昭和20年8月9日、あの
原子爆弾で被爆。その後も、被爆者救護の医療活動を続け、
いよいよ体が動けなくなった後は、畳二枚の病床「如己堂」
(にょこどう)で執筆活動を続け、
「長崎の鐘」や「この子を残して」など多数の著書を残し、
最期まで「己(おのれ)の如く人を愛せよ」 「平和を」と
訴え続け、昭和26年、43歳の若さで亡くなられた。
明治41年(1908年)生まれで今年生誕100年になる。
博士の遺志は長崎と三刀屋町(雲南市)にある記念館や
「如己の会」など多くの人々によって語り、受け継がれ、
いま生誕100年を記念して、如己堂再建の寄金や、
平和をの願いを書き綴る活動などが呼びかけられている。
この正月、友人たちと歓談するうち、新聞記事を読んだ
K夫人から「ぜひ生い立ちの地に行ってみたい」と
提案があり、誰もが即座に賛同。
この日、5人で記念館や生い立ちの家を訪れ、
博士を偲びつつ、ささやかであっても全員それぞれに
願いを込めて「平和を」と墨書して帰りました。
私は故郷のことを友人達が知ってくれることの嬉しさと
同時に、文字通り身命を賭して「それでも人を愛せよ」
と、ひたすら訴えられた郷土の大先輩の遺志を、
微力ながら語りがなければならないと、改めて
思い直す機会となりました。
友人達に感謝!
水曜日, 1月 09, 2008
天津
我今年第一次翻译心香的文章。对不起,我自己的解释。
(心香のコメントには字数が多くて入らないので、このブログで書きます)
「天津」
今回再び天津に来る機会があり、改めてこの街を読み(知り)ました。
天津は「万国建築博物館」と称されるところで、清朝末期に英仏列強が租界として占領し、当時、各国の駐留軍の建物、異なる風格の建築が、この広くない区域に、それぞれに建てられた。もう100年の時が過ぎたが、これらの建築は大変良く元の姿を保って来た。今回友人がわざわざ私を「馬場道」に連れて行った。これは東西南北に向かう道で、さまざまな西洋建築が最も集中する区域だ。19世紀末、英国籍のドイツ人「德璀琳」が、この一帯に競馬場を開設し、ここを起点として、英国租界から競馬場に向かう道路をつくった。馬場道の名はそのためだ。この街を歩くと、両側に全て異なる風格の洋館が、静かで趣のある外観、精緻な細部で、人々の足を停め、つぶさに見物させる。どの歴史建築も完全保存であるだけでなく、門外には説明文があり、風格の謂(いわ)れや年代、かつての主人など、
はっきり分かるように書いてある。これらの古い建物は今や多くはオフィスで、週末には正門はぴったりと閉じられ、ある種の神秘さが一層にじみ出て、多くの物語や、かつてここで起こったこと全てについて、現代人に更に当時の経緯を追究したいと思わせるのだ。
天津は、中国の4大直轄市の一つ。北京から天津まで特急列車の乗って、わずか1時間。天津の基本は真南、真北、真東、真西への街道ではなく、大部分は斜めに通っている街路で、私のように“方向音痴”の人にとっては、天津観光では確かに腹立たしい思いがする。
天津人はにぎやか好きで、親切で、例えば道を尋ねると、多くの人が取り囲んでのぞき込み、てんでに話しまくるから、尋ねた人はその場で感動したり、茫然としたりする。天津の飲食は品数が豊富で値段も安いから、多くの北京人が、週末の例会をわざわざ天津に来て行い、買い物したり、美味しいものを食べたりする。天津の「狗不里包子」「大麻花」「耳朵眼炸糕」はどれも値打ちのある一品だ。
天津人のおしゃれな装いは色あでやかで、この点は私は日本の大阪人と良く似ていると思う。
特に歳をとった婦人は新年と節句のたびごとに、赤いのをはおり、緑のをかぶるのが好きで、友人が以前、「天津の女は大胆に舞台衣装を着て街を歩く」と冗談に言ったが、私はそうではなくて、それは祝日のめでたさを一層際立たせる、天津人の朗らかな性格がはっきり示されていることだと思う。
(心香のコメントには字数が多くて入らないので、このブログで書きます)
「天津」
今回再び天津に来る機会があり、改めてこの街を読み(知り)ました。
天津は「万国建築博物館」と称されるところで、清朝末期に英仏列強が租界として占領し、当時、各国の駐留軍の建物、異なる風格の建築が、この広くない区域に、それぞれに建てられた。もう100年の時が過ぎたが、これらの建築は大変良く元の姿を保って来た。今回友人がわざわざ私を「馬場道」に連れて行った。これは東西南北に向かう道で、さまざまな西洋建築が最も集中する区域だ。19世紀末、英国籍のドイツ人「德璀琳」が、この一帯に競馬場を開設し、ここを起点として、英国租界から競馬場に向かう道路をつくった。馬場道の名はそのためだ。この街を歩くと、両側に全て異なる風格の洋館が、静かで趣のある外観、精緻な細部で、人々の足を停め、つぶさに見物させる。どの歴史建築も完全保存であるだけでなく、門外には説明文があり、風格の謂(いわ)れや年代、かつての主人など、
はっきり分かるように書いてある。これらの古い建物は今や多くはオフィスで、週末には正門はぴったりと閉じられ、ある種の神秘さが一層にじみ出て、多くの物語や、かつてここで起こったこと全てについて、現代人に更に当時の経緯を追究したいと思わせるのだ。
天津は、中国の4大直轄市の一つ。北京から天津まで特急列車の乗って、わずか1時間。天津の基本は真南、真北、真東、真西への街道ではなく、大部分は斜めに通っている街路で、私のように“方向音痴”の人にとっては、天津観光では確かに腹立たしい思いがする。
天津人はにぎやか好きで、親切で、例えば道を尋ねると、多くの人が取り囲んでのぞき込み、てんでに話しまくるから、尋ねた人はその場で感動したり、茫然としたりする。天津の飲食は品数が豊富で値段も安いから、多くの北京人が、週末の例会をわざわざ天津に来て行い、買い物したり、美味しいものを食べたりする。天津の「狗不里包子」「大麻花」「耳朵眼炸糕」はどれも値打ちのある一品だ。
天津人のおしゃれな装いは色あでやかで、この点は私は日本の大阪人と良く似ていると思う。
特に歳をとった婦人は新年と節句のたびごとに、赤いのをはおり、緑のをかぶるのが好きで、友人が以前、「天津の女は大胆に舞台衣装を着て街を歩く」と冗談に言ったが、私はそうではなくて、それは祝日のめでたさを一層際立たせる、天津人の朗らかな性格がはっきり示されていることだと思う。
月曜日, 1月 07, 2008
うん、何?
うん、何? これ何?
この写真は以前、雲南の棚田のある村で見た路傍の石神です。
きのう県民会館で上映された映画「うん、何?」を見ました。
映画は平田出身の錦織良成監督」の作品で、
“その他の出演”も含めて地元の皆さんが全面的に協力した作品です。
僕からみると、少しもドラマチックな内容ではありませんが、
故郷の町や母校(高校)が舞台になり、
その故郷の歴史を背景にした物語で、ふと涙しながら鑑賞しました。
僕は以前から 「出雲人(あえて出雲の国)は日本人の中でも控えめ
なのではなく、出雲人の性格こそが日本人を代表している」と思う
一人なので、この映画が語ろうとする“心”を、嬉しく鑑賞しました。
もうすぐ桜が咲くころには、
この雲南の春の自然の美しさに浸れることができます。
もし良かったら一緒に撮影にいきましょう。 「うん、何?」
(雲南出身の一人より)
この写真は以前、雲南の棚田のある村で見た路傍の石神です。
きのう県民会館で上映された映画「うん、何?」を見ました。
映画は平田出身の錦織良成監督」の作品で、
“その他の出演”も含めて地元の皆さんが全面的に協力した作品です。
僕からみると、少しもドラマチックな内容ではありませんが、
故郷の町や母校(高校)が舞台になり、
その故郷の歴史を背景にした物語で、ふと涙しながら鑑賞しました。
僕は以前から 「出雲人(あえて出雲の国)は日本人の中でも控えめ
なのではなく、出雲人の性格こそが日本人を代表している」と思う
一人なので、この映画が語ろうとする“心”を、嬉しく鑑賞しました。
もうすぐ桜が咲くころには、
この雲南の春の自然の美しさに浸れることができます。
もし良かったら一緒に撮影にいきましょう。 「うん、何?」
(雲南出身の一人より)
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