永井博士は、我が故郷の飯石村(現・三刀屋町多久和)に育ち、
長崎医大に進み放射線専門医師として献身的な治療に当たる
うちに自ら白血病にかかり、そして昭和20年8月9日、あの
原子爆弾で被爆。その後も、被爆者救護の医療活動を続け、
いよいよ体が動けなくなった後は、畳二枚の病床「如己堂」
(にょこどう)で執筆活動を続け、
「長崎の鐘」や「この子を残して」など多数の著書を残し、
最期まで「己(おのれ)の如く人を愛せよ」 「平和を」と
訴え続け、昭和26年、43歳の若さで亡くなられた。
明治41年(1908年)生まれで今年生誕100年になる。
博士の遺志は長崎と三刀屋町(雲南市)にある記念館や
「如己の会」など多くの人々によって語り、受け継がれ、
いま生誕100年を記念して、如己堂再建の寄金や、
平和をの願いを書き綴る活動などが呼びかけられている。
この正月、友人たちと歓談するうち、新聞記事を読んだ
K夫人から「ぜひ生い立ちの地に行ってみたい」と
提案があり、誰もが即座に賛同。
この日、5人で記念館や生い立ちの家を訪れ、
博士を偲びつつ、ささやかであっても全員それぞれに
願いを込めて「平和を」と墨書して帰りました。
私は故郷のことを友人達が知ってくれることの嬉しさと
同時に、文字通り身命を賭して「それでも人を愛せよ」
と、ひたすら訴えられた郷土の大先輩の遺志を、
微力ながら語りがなければならないと、改めて
思い直す機会となりました。
友人達に感謝!
2 件のコメント:
三刀屋へわいわい楽しいドライブだったようですね。また写真を見せてくださいね。
昨日はご案内ありがとうございました。心にきましたねー。それにしても、貴方の優しい運転に感心しました。貴方には如己愛人の魂が宿っております。私ならスピードだしての一直線。自己愛を如己愛人に切り替えましょう。
satiko
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